僕に人生を教えてくれた父
父のことを書くにあたっていろんな思い出が蘇る。
僕の父は左官職人で山口県を中心に1人親方をしていた。2010年11月頃から2014年12月頃まで僕も父の元で左官職をしていた。
父は若い頃は自衛隊のトップ層に行こうと防衛大学を目指すくらい勉強家だったと。ナポレオンや坂本龍馬が好きで英雄の生き方に憧れていたそう。
左官職人の父のもとで
僕は元々、左官をする気はなくギターを学ぶために23歳で東京で学ぼうとしていた。ゴルフの研修生をしていたのだがこれは違うと方向転換した時期である。
ゴルフと同じでギターもやめてしまうのではないかと思う父の反対を押し切り僕は東京に行ったのでした。新宿あたりで野宿を1週間ぐらいしりんご生活、音楽学校を見て回っていた。
父からの連絡が何回あったか出て今日一回帰るよと松屋へ。
父は心配したのでしょう。俺の左官を学んでから行ってくれと。邦ちゃん(僕)が困ったときに役に立つかもしれんからと。
お互い涙を流しながら、ギターを学びたい気持ちを置いて左官やりますと僕は言った。そうして僕は父のもとで左官をするように。
父は見て学べではなく、説明しながら僕を指導してくれた。父はよく教え方について持論を語っていた。職人たちは人に教えるのは下手くそと。俺みたいに周りを見てお客さんとコミュニケーションを取りかつ左官の難しい仕事もできる人間は少ないぞと。
若い人が育たないのは指導者にも原因がある。もちろん本人のやる気の問題が大きいけどね。モチベーションを下げるのは指導者失格だと。そんな父も人間だから怒ることもある。
モチベーションを下げられることもあったがプロである以上モチベーションで仕事をしない、僕はそう意識するようになる。
父は2tトラックやワゴンとのってきましたが、左官をするには軽トラが一番だと言っていましたね。僕が運転していたのだが、当時僕は運転に慣れてなく父が狭いところばかり行かせるため自然と狭いところは慣れていくように。
そんな父は仕事仲間から邦ちゃんのお父さんはねえ山口県で超一流よと持ち上げていましたが父は笑ってそんなことはないよと謙遜していた。
しかし思えば初めてのものを扱うとき、父は事前に家で試して眠らずにやっていることもあった。
そんな父の背中を見てきた僕は、責任感がある優しい父のもとに生まれてきてよかったなあと思ったのでした。
父は昔国のために頑張りたいと思い防衛大学を目指していた。
防衛大学に入れる学力と先生からの評価は高かったけどもう国のためにという時代じゃないんだと、俺の活躍できる場はもうないんだなあと、気力をなくして高校も途中で辞めたぐらいのことがあった。
よく防衛大学を辞めた理由言っていたね。何回も聞いたのに忘れそうになってしまう。
僕もゴルフで似たようなことをしたから血は争えないなあと。
2015年2月28日東京へ
左官を4年ほど経験し父は普通に左官で入社してやるよりは早く左官の技術を教えられた。ある程度はできるから安心だと。
父と母が寂しくなるのうと言い合いながらも僕を送り出してくれたこと忘れられない。
ギターをしっかり学んで一人前になって山口に帰って恩返しをしたいその思いで山口を出る。
2016年〜2017年 大晦日からお正月は山口県へ
2015年は勉強の年、ギターを学んで学んで同じ道を志す人達と出会い、知らない人はいないぐらい話しかけていた。
音楽から離れていった人たちもいたが違うところで活かしていると。2015年は夜勤と早朝のアルバイトをしながらでお金が使えず家に帰られなかった年であった。
2016年12月27日か28日山口へ。新幹線に乗って新山口駅に着くと父が迎えに来てくれていた。なぜだろう父が小さく見えたのは。金融公庫で借りて100万の軽トラ買ったぞ〜と意気揚々と話して一緒に乗る。
相変わらずエメラルドマウンテンが好きだなあ青いコーヒーが良く似合ってる
明日も仕事あるからのう、建設業界も年末だいたい忙しいものですが左官職は特に仕上げなのでしわ寄せがね。いつものようにブツブツ思いを言いながら仕事の話をしながら明日も仕事、邦ちゃん明後日加勢してくれる?
僕
もちろんです!
父
よかった〜邦ちゃんが加勢してくれたら助かるぞ
その日の夕食は刺身!!
この年から毎年帰っては父と母の写真を撮るようになりましたね。離れても写真や動画をみて励みにしたいと。2015年は帰れなかったから余計に。電話は一週間のうち1回〜3回ペースだったなあ。
2022年
2022年3月頃から認知症を患い、長い間自分の記憶と戦っていた。
ロシアとウクライナの戦争が始まってから戦争で亡くなる人がいるのに自分の趣味をするのに罪悪感を感じ引きこもるようになった。他人の事を考えないでいいから自分のことを大事にしてくださいと本人へ伝えるも。。。



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